悠悠炊事

博多湾を望む今宿の悠悠炊事は
週に4日ほどブログを書くつもりです

カテゴリ: 吉井勇

 君にちかふ 阿蘇の煙の 絶ゆるとも 万葉集の 歌ほろぶとも
【酒ほがひ 後の恋 明治43年9月刊】

万葉の柵  歌人の吉井勇の歌集「流離抄りゅうりしょう」を棟方志功が板画にしたものがある。安川電機の棟方カレンダーにそれがあるだろうと調べたところ1988年に「流離抄 板畫巻」として出されていた。
 ヤフーオークションに出品されていたのを 2,500円で落札したのが右のもの。今から29年前のものにもかかわらず、和紙に印刷された板画はしっかりとしている。
 流離抄の板画は31柵あるが、カレンダーは表紙を含めて13柵だ。
 1988年のカレンダーは必要ないから、板画を剥がして台紙としてのカレンダー部分は捨てた。
 表紙の短歌は、万葉の柵
 阿蘇山が死火山になっても万葉集が誰にも読まれなくても私は君を愛し続ける、といった恋歌ですな。スケールが大きい。愛だの恋だの好きだのの言葉がないのがすごい。

 吉井勇の歌集「流離抄」は1946(昭和21)年に発行された疎開時代の歌を集めたものだが、棟方志功の「流離抄 板畫巻」は、明治の頃からの吉井勇の優れた歌を選んで板画にしたものである。


1988年1月の板画 角屋すみやの柵
 島原の 角屋の塵は なつかしや 元禄の塵 亨保の塵
【祇園歌集 島原 大正4年11月刊】

角屋の柵  2017年の安川電機カレンダーの1月、2月は黒の単色でパッとしない。2月のそれは板画部分を剥がして、これに替えた。
 夕刻、勤めから戻った妻がこれを見て驚くだろう。長崎県の島原が歌に読まれていると思うに違いない。
 島原の角屋って何の店? と、島原出身の妻に私はしれーっと聞いてみるつもりだ。島原の角屋とは→角屋(すみや)保存会
 島原は島原でも京都の島原(花街があったところ、島原遊郭)のことだ。島原の名の由来は「島原の乱」と関係があるといわれている。
 棟方志功の板画の文字を見て、長崎県出身の妻は「なつかしや」を「なつかしか」と歌うかもしれない。
 だが、妻は当たり前にこの歌を詠んでいた。いうには、南島原市には角屋すみやと呼ばれる地区があるというのだ。

 

1988年2月の板画 悟空ごくうの柵
 孫悟空 そらを飛ぶやと 思わるる ばかりはげしく 走る夜の雲
【人間経 その三 昭和9年10月刊】

 新月の夜ではなく、ほぼ満月のときで、煌々と光る月の下をすごいスピードで雲が流れていく風情。月のことは詠んでなくても月を感じ、群れ飛ぶ雲に光を遮られ、再び、煌々と大地を照らす様を見る。悟空の柵

1988年3月の板画 かにかくにの柵
 かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕の下を 水のながるる
【祇園歌集 祇園 大正4年11月刊】

かにかくにの柵  吉井勇の名は知らずとも、この短歌は有名。有名過ぎるからか、板画が弱い。吉井勇が川を枕にして寝ている漫画チックなデザインだと面白いのだが。
 この歌碑は祇園の白川南通にある。10年前に散策したことがある。
 谷崎潤一郎が「吉井勇翁枕花」として追悼した文の中に、
「歌碑と云へば、私は大友の昔をなつかしむ餘り、あの歌碑を朱肉で拓本に取らせて、今の熱海の家の客座敷の襖に張り、朝夕それを眺めて暮らしてゐる」谷崎潤一郎全集 没後版 第22巻
 と、書いてある。(注:大友は祇園の茶屋)

←流離抄 板畫巻(その1)

1988年4月の板画 山火やまびの柵
 伊豆も見ゆ 伊豆の山火も 稀に見ゆ 伊豆はも恋し 吾妹子のごと
【酒ほがひ 夏のおもひで 明治43年9月刊】

 静岡県の伊豆を歌っているのは分かる。「吾妹子」の意味が分からない。広辞苑で引くと、わぎも-こ【吾妹子】「わぎも」に愛称の「子」を添えた語。
 そして、わぎも【吾妹】(ワガイモの約)男性が女性を親しんで呼ぶ語、とある。
 貴女と同じように、伊豆も、稀に見る伊豆の山火も恋しい、ということですか……。確かに女性は稀にヒステリックになるものだ。
 稀に見えるという伊豆の山火は、伊豆高原の大室山であろうといわれている。毎年2月に山焼きがある。
山火の柵

1988年5月の板画 哀色あいしょくの柵
 廣重の 海のいろより ややうすし わがこの頃の かなしみのいろ
【昨日まで 秋と冬 大正2年6月刊】

哀色の柵  数年前のNHK朝ドラ「花子とアン」で柳原白蓮やなぎわら びゃくれんが出てきて話題になったが、吉井勇の最初の妻は白蓮の姪だった。その妻がスキャンダルを起こして後に離婚し、吉井勇は高知県へ隠れ住んだ。ご参考→Wikipedia 不良華族事件
 吉井勇はブルーになり、それはヒロシゲブルーよりも薄色だった。「不良華族事件」は昭和8年のことだが、歌は大正2年のものだが。
(注:廣重は東海道五十三次などの作品で有名な浮世絵師の歌川広重)
←流離抄 板畫巻(その2)

1988年6月の板画 伴天連ばてれんの柵
 白秋と ともに泊まりし 天草の 大江の宿は 伴天連の宿
【夜の心 長崎紀行 大正13年6月刊】

  1907(明治40)年、与謝野寛が、学生だった木下杢太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を連れて旅して、大江の高砂屋に宿泊し、翌日はガルニエ神父(1892年以来この地で布教に従事した)に面会をした。 ご参考→Wikipedia 五足の靴
 私は、2003年に吉井勇のこの歌碑のある熊本県天草市の大江天主堂に行ったことがある。仲間3人と前夜の熊本市内で深酒をして、二日酔いがひどくガルニエ神父の胸像は記憶にあるが、この歌碑は記憶にない。この歌をよむと熊本から天草までの長い二日酔いのドライブを思い出す。私は後部座席で寝転がっていた。
伴天連の柵

1988年7月の板画 獅子窟ししくつの柵
 酒にがく 女みにくし このごろは こころしきりに 獅子窟にゆく
【昨日まで 逃亡 大正2年6月刊】

獅子窟の柵  獅子窟とは、大阪府交野市にある高野山真言宗の寺院だそうだ。空海が修行をしたという。地図で見てみると、山の上で眺望がよさそうだが車では行けない。
 酒も女も調子がいまいちの時は獅子窟寺参りか、そんな心境を詠ったのかと思った。
 ところが吉井勇の随筆の「酔狂録」には、

 われ往かむかの獅子窟は
    酒ありて女もありて夢見るによし
 注:(「われ往かむ」は現在では「われ行こう」という意味)
の歌がある。
 吉井勇にとっての修験しゅげん場は、女も酒もある酒場だったのだろう。そこを「獅子窟」といっていたのだと私は解釈する。
 以下、「酔狂録」の冒頭の部分↓
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 私はその時分毎晩のやうに銀座界隈の酒場歩きをやつてゐたので、その夜ももうかなり遅く、尾張町の角のところにある、或る大きな、天井に近い高い壁から時時造りものの獅子が首を出して吼える仕掛けになつてゐるカフヱーで、頻しきりにウヰスキーの杯を傾けてゐた。
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注:尾張町は現在の東京都中央区銀座の一部 当時の「カフェー・ライオン」、現在の「銀座ライオン」のことか。

←流離抄 板畫巻(その3)

1988年8月の板画 広鰭ひろはだの柵
 海に入り 浪のなかにて たはむれぬ はだの廣もの ものらのごと
【酒ほがひ 夏のおもひで 明治43年9月刊】

 鰭(はだ)は江戸前寿司のネタである小鰭(こはだ)と同じ漢字だから魚だろうと思ったが魚のヒレのことだそうで、廣ものは大きい魚、狭ものは小魚だそうだ。
 単に海水浴を歌ったものだろうと思うが、それ以外の解釈があるのだろうか。
広鰭の柵

1988年9月の板画 天狗てんぐの柵
 寂しければ 酒ほがひせむ こよひかも 彦山天狗 あらはれて来よ
【天彦 英彦山 昭和14年10月刊】

「酒ほがひせむ」は、さかほがひせむ、と読むのだろう。酒祝ひ、酒寿ひの意味だ。
 吉井勇は酒好きな人だから、寂しくても、楽しくても飲むのだろうが、酒宴の席に、芸者やコンパニオンではなく、唐突に、天狗が現れてほしい、とはどういう心境か。
 鞍馬天狗などが有名であるから、てっきり京都の歌かと思ったら、福岡県と大分県の県境にある英彦ひこ山なのだ。高住神社のホームページに天狗の説明がある。
ま た、当神社は豊前坊天狗神としても有名で、欲深く奢りに狂った人には天狗を飛ばせて子供をさらったり、家に火をつけたりして慈悲の鉄槌を下し、心正しく信 仰する人には家来の八天狗をはじめ統べての天狗を集めて願いを遂げさせ、其の身を守ると伝えられてきました。英彦山豊前坊天狗は九州の天狗群の棟梁格と云 われています。
天狗の柵
 酒宴であれば多くの人がいて、心正しく信仰する人もいれば、欲深く奢りに狂った人もいるであろう。嫌な奴には慈悲の鉄槌を下してほしいと思うこともある。
 吉井勇+棟方志功の「流離抄 板畫巻」では、この柵が私の一番の好み。

←流離抄 板畫巻(その4)

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